コンシューマー心理学からみた

最近の消費者の食嗜好・食態度

今田純雄(広島修道大学・人文学部)

食感性工学シンポジウム(サイエンスフォーラム)

2003年10月10日(金) 15:30〜17:00 自動車会館2F「大会議室」

  1. 高度成長期の食環境
  2. 1956年から1973年までの日本は経済の高度成長期にあった.平均成長率9.00%,平均貯蓄率16.10%を維持し,少種大量生産の製造業は,一躍日本を経済大国に押し上げた.(1955年は「もはや戦後ではない」と宣言された年であり,1973年は石油ショックの年である).

    高度成長期の日本は,食の観点からみると,食」に向かい,たどりつく時代である.戦後経済下での「飢え」を意識の奥にのこしながら,アメリカに代表される「豊かさ」にたどりつこうと努力を惜しまなかった時期である.人々は,お腹一杯においしいものを食べたい,という目標に向かっていた.食品会社の目標も,よりおいしいものを,より安く,より大量に供給するというものであったと思う.

  3. 1970年前後の食環境と消費者
  4. 1970年は外国資本による外食業への国内参入が可能となった年である.日本マクドナルド,KFC,ミスタードーナッツという,その後の日本の食を大きく方向付けることとなるファーストフードがこの時期にそれぞれ第一号店を開店させた.ファミリーレストランでは,すかいらーく1号店,ロイヤルホスト1号店が開店させ,また吉野家がチェーン店展開にむかったのもこの時期である.

    1970年前後の時期は,調理革命が進行した時期でもある.1969年に,大塚製薬はレトルトカレーを発売した.1971年には,日清がカップ麺の第1号となるカップヌードルを発売した.またシャープにより発売された電子レンジ(1962)については,1971年には10万円を切る商品が発売され,一挙に一般家庭へ浸透することとなった.(1974年でシャープの電子レンジは累計生産100万台を突破したということである.2000年段階での普及率は90%を越える).

    民俗学者の調査によれば,チャブ台よりもテーブルでの食事が多くなるのが1971年ということである.食卓の様式変更は住居構造,家族構成の変化等の要因の影響を受けるものであり,このような変化が同時期に進行したということはおもしろい偶然である.チャブ台よりもはるかに身体動作の自由度がきくテーブルでの食事は,食環境の変化と連動して,日本人の食事様式におおきな影響を与えたと思われる.

  5. 1970年代の食環境と消費者
  6.  1970年代中頃に入ると,日本の食環境はさらに発展していく.日本セブンイレブン1号店の開店である(1974).翌年はローソンも1号店を開店する.FamilyMartの実験1号店は1973年の開店である.1970年中旬はコンビニエンストアー勃興の時期と特徴づけられよう.さらに外食産業に関連しては,ほっかほっか亭が1976年よりチェーン店展開を開始し,デニーズが1号店を開店している(1974).

    日本の食環境がおおきく変動しはじめる条件がそろい,実際に消費者の食行動はおおきく変化した.ちゃぶ台を囲んだ一家団欒の食事風景は揶揄の対象となり,経済大国という自負の元に,消費は美徳ともいうべき行動をとるようになった.「食」が満たされれば,続く時代は食に飽和した時代,すなわち食」の時代である.いつでも,どこでも,なんでも食べられる環境にあって,人は食に変化をもとめるようになっていった.(高度に規格化された食の提供が,変化の乏しい食物を生み出したのではないかとも考えられる.つまり,いつ,どこで食べても,同じようなものばかりという食環境が,変化を求めるという心理を生み出したとも解される).

    種々の統計をみると,この時期の食の変化をかいまみていくことができる.年間一人あたりの砂糖の消費量は,1970年頃に天井打ちとなり,1972年以降は下降していく.グルタミン酸ナトリウム(MSG)の生産量は1950年代から1960年代にかけては加速度的に増大したが,1969年をピークに以降はほぼ一定の生産量となる.それに代わり1970年代以降は風味調味料の生産量が増加していく.

    少種大量生産の時代はおわり,多種少量生産の時代にはいる.食品業界も,よりおいしいものを,より安く,よりバリエーション豊富に,という目標にかわってかわっていったと思われる.「消費者の多様なニーズに応える」というフレーズは食品業界の共通語になっていったように思う.

    私の意見:人間は環境の変化に対して実に柔軟にその行動を変えていく.この時代,突然に,多種多様な人類が誕生したはずはなく,また人が突然に多様なニーズを持ち始めたわけではない.人間の側が混乱したにすぎないと思う.食環境が大きく変わり,従来の行動パターンを維持できなくなり,新たな行動パターンを学習せざるえない環境下にあって,ある種の「試行錯誤」をし始めていた.個体レベルでは,例えば行きつけの蕎麦屋が消滅すれば,別の飲食の場を探さざるをえない.集団レベルでは,行動規範を変化させざるを得ない(例えば,一日3食である必要はない,歩きながら食べてもよい,ファミレスの週末外食はある種のステータスである...など).人間行動の基本はそう容易に変化するものではない.食行動の獲得・維持のしくみも,さらに食嗜好の獲得機序も変化することは考えられない.すなわち,人間は変わらない,環境はおおきく変わった,それ故に行動の変容を迫られ「試行錯誤」に入ったにすぎない,と考えている.

  7. 1980年代の食環境と消費者
  8. 1980年代については,今のところ,1970年代に進行した食環境の変化が「人の側」とともに混乱を拡大再生産させていった時代であるとみている.特に1985年のプラザ合意以降のバブル経済期は,「グルメ文化」が進行し,本来の食文化を破壊しつくした時代であったように思われる.

    日本の食は,「食」から「食」の時代へ向かい,この時期は「食」ともよぶべき段階にはいった.

    日本の消費者はこの時期に,食にかかわる多くのものを喪失した.あるいはその喪失を決定的にした.それらを列挙してみたい.1)飢餓感:食行動の獲得,維持さらに嗜好獲得にとってもっとも重要な内的条件である.いつでも,どこでも,どのようなものでも,簡単に,安価に入手できる環境下にあっては,飢餓感を経験することはまれである.激しい飢餓感をかかえ摂取する夕食のもたらす報酬効果は期待されない.2)季節感:加齢を意識する機会の消失.3)ハレとケの区別:ごちそうと日常食の区別,さらに集団帰属,集団凝集性を高める機会の消失.4)共食(分配):food sharingは社会的動物としての人間の社会性を獲得する手段として実に有効なものであった.5)食事規範:いわゆる食卓マナーの消失.家族としての帰属意識の低下.6)食物履歴情報:食物は人がつくり,運び,調理するものであるという意識が弱くなり,単なる物質となった.社会性の発達阻害.7)新奇なものを摂取する恐怖感:雑食性動物としての人は,新奇な食物の摂取に挑戦せざる得ない.しかし供給される食物は,安全である(すくなくとも1980年代においては).真の恐怖を経験する機会がまれとなる.8)多様で複雑な風味経験:一見バリエーション豊富な食物が提供されているようにみえるが,味,ニオイという風味の次元で見ると,実は狭い範囲でのバリエーションにすぎないように思える.雑味に特徴づけられる野菜,長期熟成された味噌のニオイなど.9)多様で複雑な「あじ」経験:日常われわれが「味わう」という時の知覚経験は,味嗅覚に限定的なものではなく,視覚,聴覚,触覚をふくめた多次元の複合的な知覚経験である. 10)食経験の一過性・変動性:本来,みそ汁は毎日違う味のものとなる(ならざるをえない).本来料理とは,風味,「あじ」において変動性の高いものである.家庭料理とは,その変動性がより高いものである.しかしインスタントみそ汁は均一な味を提供する.ファーストフード店は,いつ,どこで食べても(ほぼ)同じものを提供する.

    これらの喪失は何を意味するだろうか.私は,1)食物が生命体である(あった)という認識の消失,2)ひいては自己が生命体であるということの認識の消失,3)特に,社会的生物であるということの認識の消失へむかっているように思う.

  9. 1990年代以降の食環境と消費者
  10. バブル経済の崩壊と共に,日本の食環境も暗雲の時期をむかえた.1993年は東日本を中心に冷害に見舞われ,259万トンもの米が緊急輸入された.1995年は阪神大震災がおこり,震災地域の多くの人が一時期とはいえ,飲食物が入手できないという恐怖をあじわった.1996年にはO-157汚染カイワレ事件がおこった.大量生産される「清潔」「安全」な食物が「細菌汚染」に対してきわめて脆弱であることが知れ渡った.この頃,海外では狂牛病,豚コレラ等が発生していた.1998年は,夏の和歌山で青酸入りカレー事件が発生し,新潟ではアジ化ナトリウム混入事件がおこった.模倣犯罪が連続した年でもある.海外では,香港でのインフルエンザA感染鶏が大量に焼却処分される事件がおこり,ベルギーではダイオキシン汚染鶏肉鶏卵が問題となった.1999年は,テレビのニュース番組が埼玉のダイオキシン汚染「野菜」をとりあげ,おおきな騒動となった.この頃,「環境ホルモン」「キレる」という言葉が流行した.また「買ってはいけない」という書物がベストセラーとなり,関連書がつぎつぎと出版された.2000年には雪印乳業による食中毒事件が発生した.2001年には日本においてもBSE感染牛が発生し,全国的に牛肉の消費が抑制された.2002年には,雪印食品,日本ハムによる大がかりな牛肉偽装事件が発覚した.また「ためしてガッテン」「発掘あるある大辞典」等のテレビが食物をテーマにすると視聴率を大きく上げ,「安全」「健康(身体によい)」をキーワードに,キノコ,タマネギ,緑茶,大豆といった食品を頻繁にとりあげるようになった時代でもある.

    1970年までを「食」の時代と呼び,1970年代を「食」の時代,1980年代を「食」の時代と呼んだ.これらにならえば,1990年代は「食」の時代と呼ぶことができよう.食物に対する信頼感,安心感,食べることの喜び,楽しみといったものが失われていった時期である.食は快の源泉(source)ではなくなり,不安の種になりつつある.食べたいから食べるのではなく,食べないわけにはいかないので仕方なく,いやいや食べるという時代に入りつつある.

  11. 2000年代の食環境と消費者
  12. 現在の状況を記述することは容易ではない.1)マクドナルドの店舗数増加がストップしたこと,2)非合法の食品添加物使用に関するお詫び広告があいついだこと,3)食の消費行動における二極化が進行していること(集団としてみても,一方には半額キャンペーンに流れる消費者がおり,他方には「本物志向」に流れる消費者がいる.個人レベルにおいても,ハレとケの復活とおもえるような食消費行動が観察される).4)「スローフード」「食育」という言葉をよく目にするようになってきたこと,などに気づく.90年代からつづく食不信,食不安は解決されないまま根強く残っている.

    2000年代に入り,注意を喚起すべきことがある.それは,新たな世代交代の時期に入っていることである.1970年に誕生した人は2000年に30才を向かえる.すなわち1970年以降の日本の食環境下で育った人たちが今,子育てに入っている.いわばマクド・ケンタ世代が次の世代の養育に入っているのである.

    人の食行動は環境側の影響をきわめてつよく受ける.例えばピーマン嫌いの親は食卓にピーマンを出すことを躊躇するであろう.そのような食環境下で育つ子は,ピーマン嫌いになるのではなく,ピーマンを嫌いになる機会すらなかった子となる.現在は,近未来の消費者がその食行動の基礎を形成しつつある時期である.

    日本の場合は,食行動,食嗜好の形成における給食の枠割りがおおきい.給食は単に栄養補給の場(実際には家庭における栄養摂取上の問題を改善している)ではなく,食嗜好獲得の場でもある.はたしてどのような食嗜好,食行動を示す人が作られつつあるのだろうか.食行動に関心をもつ研究者にとっては実に興味深い.

  13. アメリカの食環境と消費者
  14.  これまでアメリカの食状況を理解する為のキーワードは,ファーストフード,移民,肥満であった.それに加え、最近ではGMO,naturalをよく目にするようになった.肥満は過食性肥満が大半であり,近年では,ヒスパニック系移民の肥満が特徴的であるといわれる.よりおいしく,より安価な食物を,より多く食べるという目標を達成した結果が,アメリカの場合は国家的レベルでの肥満となった.

    アメリカの消費者が現在の食環境下でもっとも目にする言葉はnaturalという言葉であるらしい.しかしnaturalの心理的意味合いは言葉通りではない.P. Rozinらは,欧米6ヶ国でnaturalという言葉に対する自由連想語を調査した.またそれらの言葉に対して,+1, 0, -1の価値評価をさせた.+1はポジティブな言葉という評価であり,-1はネガティブな言葉という評価であり,0は中立という評価である.もっとも低い評価を下した英国人であってすら平均で2.21というものであった.米国人のみを対象とした調査では, naturalというラベルが貼ってあるとその食物を購入したくなるという人が96%にも及んでいる.また余分な費用がかかってもnatural foodを購入できるのなら購入したいという人が57%もいた.Natural という言葉に対して消費者がイメージするものは,健康によい,味がよい,環境によいというものである.Natural foodの定義にもよるが,これらは必ずしも真ではない.むしろ逆のケースがおおい.しかしながら,アメリカの消費者はnatural,natural foodという言葉に対してきわめて好意的な反応をおこなう.日本では,naturalに対応する日常用語はない.無添加,有機,無農薬,天然,新鮮といったより限定的,具体的な言葉におきかわるようである.

    GMOに対するOCHA調査によれば,仏,独,伊,スイスはGMO農作物につよい抵抗を示し,英はさほどでもなく,米は抵抗感は低いということである.GMO農作物はunnaturalそのものであるが,なぜか米国人は欧人と比べて抵抗を示さない.これは謎の一つである.(フレンチ・パラドクスに比較される謎である).Rozinは,米国人はfat, salt, toxins, germsと心配事が多すぎてGMOどころではないと述べているが,根本的な食物に対する態度が,米仏間で異なることに帰因していると思われる.

  15. ヒトの食行動
  16. 食行動は本来きわめて生物的な行動である.ヒトとは視覚優位の雑食性動物であり,栄養源(食物)の獲得が不規則であることを前提としたエネルギー貯蔵システムをもつ動物である.また誕生後しばらくは乳のみを栄養源とする哺乳動物であり,自発的な身体移動と固形物の咀嚼・嚥下が可能となるまでの期間は常に成体の保護を必要とする動物である.さらに,群れをなして生きる社会性の動物であり,他個体の行動の観察,模倣にすぐれ,社会規範,文化規範といった水準での自己統制すら可能な動物である.脳が極端に発達しており,環境適応の能力(学習能力)が優れているだけでなく,環境そのものを変化させ,自らの動物種としての生存を危うくするまでの変容を,地球環境レベルにまで行いつつある動物である.

    このような動物であるヒトと比較的類似した動物はネズミである(社会規範,文化規範といった水準での自己統制については不明).ネズミは実験動物としても利用されることがおおく,食行動にかかわる動物実験の多くはネズミを用いたものである.ネズミを用いた動物実験からは,エネルギー摂取の調節システム,食物好悪獲得の機序に関する基本的なしくみが,これまで相当に解明されている.そこで得られた知見は,動物としてのヒトが有する能力といえよう.大きくは,エネルギー調節と食物選択の能力である.

    ヒトが動物として有するエネルギー調節能力に関して注目すべきことは,ヒトは本来,エネルギーの不足に対しては相当な用意(防衛システム)をもっているが,エネルギーの過剰取り込みに対する防衛システムは有していない,あるいはきわめて弱いということである.食べれるときに食べておこう,一度取り込んだものは大事に保管し(貯蔵脂肪),できるだけ消費しないでおこう,ということである.

    食物選択の能力とは,主に学習(条件づけ)による.また,変化希求(バラエティシーキング),刺激希求(センセーションシーキング)という生得的な行動傾向もしられており,これらは多種の栄養素摂取を促進することに貢献している.甘味,油脂味(油脂のニオイ)は高カロリー(US)のラベル(CS)として容易に条件づけられる.塩味は生得的な嗜好バイアスを有し,当然条件づけられやすい.このような学習の観点からみていくと,ファーストフードを特徴づける甘味,油脂,塩味は嗜好獲得を容易とする基本条件を有していることとなる.(いわゆるジャンクフードの嗜好獲得の容易さを説明する)

  17. 認知(こころ)の役割

どうして通常飼育されている実験動物は肥満にならないのだろうか.動物園の動物しかり.あるいは,アメリカばかりで肥満者が急増し,日本ではさほどでもないのはなぜか.このような問題を検討するにはまず,食行動に対する認知・感情の役割について見ていく必要がある.

簡単な実験のいくつかを紹介する.1)ミネラルウォーターはおいしいか?2)無添加ウィンナーはおいしいか?3)トイレのニオイのするチューインガム,4)視覚刺激によって喚起されたイメージはニオイの評価を変える,といった実験である.これらの実験が示すことは,人が「頭」(認知,思考,観念,イメージ,予期)で食べる動物であるということである.同一の甘味溶液であっても,一方にバニラ臭が添加されると,無添加のものよりも「甘い」と評価される.口入れる前にトイレの芳香剤のニオイをイメージしてしまうと,そのチューインガムはあまりおいしくない.食品添加物の健康阻害に関する情報を得ると,無添加のウィンナーがおいしいと思えてくる.バラの美しい写真を映写しながらバラの匂いの強度を評価させると,そうではないときと比較してバラの匂いは強く評価される.われわれはまさに「あたまで食べる」動物である.

10. 不安とヒューリスティクス思考

近年の消費者行動で注目されることは,カイワレ菜,特定メーカーの牛乳,牛肉等に対する不買行動が,極端な同調行動となってあらわれたことである.なぜ消費者はこれほどなだれをうった行動をとったのだろうか.古典的には,情報の不足と不安が主因であると解釈される.ここでは現在の心理学の知見を加味して説明したい.

われわれは一般に「考えることの節約」をおこなう傾向がある.ヒューリスティクスといわれる思考法である.現在の食環境下のおいては,多種多様な食品が発売され,食品の選択幅にきわめて広い.一般的に,選択幅が広いということはそれ自身が嫌悪的である(欧米でのOCHA調査によれば,10種類のアイスクリームからの選択と50種類のアイスクリームからの選択の2場面のいずれかを選ばせると,6ヶ国調査のなかで,後者の場面を選択したのはアメリカ人だけであった.個人的な経験においても,レストランでのメニュー選びを楽しむ人は,アメリカ人に比べ日本人は遙かに少ないと感じる).「考えることの節約」とは「迷うことの回避」である.選択する労力(精神的疲労)を軽減しようとしているのである.消費行動の場面においてヒューリスティクスは,どの商品を購入するか,どの商品を購入しないかという選択行動におおきな影響を与える.

現在は情報があふれかえっている時代である.ヒューリスティクス思考(「考えることの節約」)はここでも力を発揮する.例えば,web検索でのkeywords入力の場面を想像されたい.われわれはkeywordsの選択により,あふれかえる情報を「平等」に検討する手間をはぶき,「欲しい」情報をてっとりばやく入手しようとする.ここでの「欲しい」情報とは自分にとって都合のよい情報である.

先に述べたように,1990年代の消費者は,食に関する不安にさらされつづけてきた.不安は同調行動の原動力である.選択可能性の過多,情報の過多がヒューリスティクス思考を促進し,同時に不安が動力となり,特定商品の不買行動という同調行動を生みだした,と解することができる.

ここでのヒューリスティクス思考とは,具体的には,どのようなものだろうか.第一は,安全(健康)−危険(非健康,不健康)という類型的思考であると思われる.第二は,おいしい−まずいという類型的思考である.さらに第三として,安い−高いという類型的思考が考えられる.これらは本来すべて,アナログ的変化をするものであり,相対的な程度の差として評価されうるものである.しかしながら,現在の消費者は,類型的思考を選択する.(ちなみに,アメリカ人のnatural志向は,安全・おいしい−危険・まずいという類型的思考であるように思われる.)

11. まとめ

1) 豊食→ 飽食→ 呆食→ 崩食→ ???

1970年を前後する時期より日本の食環境は大きく変化してきた.食環境の変化により消費者の食行動は,豊食から飽食へ,飽食から呆食へ,呆食から崩食へと変化していったように思われる.

2) 食不安+ヒューリスティック思考→ 食の同調行動

現代の消費者の第一の特徴は,同調行動が出現しやすいという点であると思われる.1990年代に立て続けに起こった食事件,食事故は,食不安を喚起する直接の引き金となった.その背後には,生命体としての自己同一視を困難とする食環境,地球環境をも破壊するまでになったunnaturalな食環境がもたらす潜在的不安がつよまりつつあることがあると考えられる.消費者はより以上に「考えることの節約」(ヒューリスティック思考)に傾いていった.

3)  食べることへの無関心,無気力,無感動,遊戯化

過去20年間,大学生を対象にさまざまな研究・調査をおこなってきた.最近気がかりなことは,食べることへの無関心,無気力,無感動の層が増加しているように思えることである.これは食べることの遊戯化にもつながる.彼ら(彼女ら)のおおくは,安く,簡便に,飢えという不快を事前に回避できればよいという動機を特徴とする食行動を営んでいるように思われる.一方で,女子学生を主に,食べることへの関心はつよく見られる.彼女らの多くは,ダイエットという概念でくくられるものに対する関心が主である.それはカロリーという概念に偏重している.

  1. 消費行動の2層化
  2. 集団内において,また個人内において食の消費行動の2層化が進行しているように思える.

  3. 食は三代...世代の交代

本来食行動とは,社会文化規範につよく拘束された行動である.1970年以降の食環境はおおきく変容し,それにともない社会文化規範もその再構築を余儀なくされた.どのような規範ができつつあるのか,あるいは今なお混乱の時期なのかは不明である.しかしながら,飽食以降の世代が,今現在,次世代を養育し始めていることは確かである.食行動という観点からみると,おおがかりな実験が進行しているとすら思える.

12. 最後に

今回は,(食の)消費者という観点から統計データー,調査データ,実験データにとらわれず,今現在考えるところを自由に語らせていただきたく考えています.私は,食行動の獲得,維持のメカニズムを過去20年あまりあれこれと調べてきました.当初は動物(ネズミ)を対象に,ストレスが食に及ぼす効果やら食物嫌悪の学習機序等を調べていました.後年はもっぱら人を対象とし,味嗅覚を主とした感覚知覚,イメージ,動機づけ(飢餓感),感情(特にストレス),学習,社会,文化,発達,臨床と,食行動にかかわる心理学の諸分野で仕事をしてきました.今回はやや悲観的な現状認識を示しましたが,日本の食環境が食であることには変わりません.そして身近な国々としては,周辺アジアが食化にたどりつつあるように思われます.個人的には,アジア(東アジア)というくくりが大事になってくるように思われます.

Corresponding: imada@shudo-u.ac.jp