6回ポー学会シンポジアム開催要旨

シンポジアム:「ポーとメルヴィル――複製と変奏」

司会 福島 祥一郎(東京電機大学)

講師 牧野 有通(明治大学)

講師 舌津 智之(立教大学)

講師 宮澤 直美(京都産業大学)

 

ポーからメルヴィルへ――複製と変奏

 

ポーとメルヴィル――周知のとおり、1941年に刊行された『アメリカン・ルネサンス』において、ポーを「アメリカン・ルネサンス」の主要作家と見なさなかったマシーセンは、この二人の関連についてほとんど触れることなく、その大著を閉じた。しかし、アメリカン・ルネサンスの枠組みの拡張とともに、ポーとメルヴィルを関連付けて論じることは次第に盛んになる。特に、1950年代後半、ペリー・ミラーが『大鴉と鯨』(1956)において当時の文壇におけるポーとメルヴィルの苦境を描きだし、パトリック・F・クインが『ポーとフランス』(1957)において『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』の『白鯨』への影響関係を詳細に論じて以降、『ピム』を中心とした第一期ポー・リバイバルやアメリカン・スタディーズの興隆とも相まって、人種(黒人表象)、南部性、カニバリズム等を巡り多くの指摘がなされてきた。近年では、人種批評の中でもアメリカの南海進出への欲望を読み解く研究や、二人の都市表象にも関心が注がれ、さらに、William E. Engel はEarly Modern Poetics in Melville and Poe: Memory, Melancholy, and the Emblematic Tradition (2012) において、17世紀文学とポーよびメルヴィルの影響関係を明らかにしている。

こうした多くの多様な先行研究の存在は、しかしながら、二人の作家について語るべきことがもはやあらかた無くなってしまったという印象を与えるよりも、むしろ二人の作家の比較研究における豊穣さを約束し、さらなる語られるべき地平を切り開いているように思われる。本シンポジアムでは、ポーからメルヴィルへ、あるいはメルヴィルからポーへ、何が反復され、何が読み換えられたのかを問うことで、これまで議論されてきた「海」や「欺くこと」といったテーマに新たな切り口を与えるとともに、これまで議論されてこなかったセクシュアリティの問題にも迫りたい。

(文責 福島祥一郎)

 

ポーとメルヴィルに及ぶコウルリッジの「海」

      ―― 阿部知二の見た彼岸と深淵

牧野有通

 

 ポーとメルヴィルによって自らの文学的世界へと船出していったともいえる阿部知二は、ポーの鋭利な詩論「B―への手紙」のコウルリッジ論を介して、自らの主知主義的文学方法論を模索していったように思われる。この詩論でポーは、コウルリッジの「聳え立つような知性、巨大なまでの力感」を重視しているが、ここで彼が「知性」に注目していることは無視することができない。ポーはコウルリッジの叙事詩「老水夫行」の「老水夫」が伝える仮死的極限状況に通底するといえる、『ナンタケットのアーサー・ゴードン・ピムの物語』の彼岸的世界を描出しているが、これは阿部の主知主義的「処理」にも関わるものといえる。ただし阿部がポーにあってそれがどのくらい成功していると見ているかは改めて検証せねばならない。他方、コウルリッジの「海」の影響力はメルヴィルにも決定的な形で及んでいる。阿部の本邦初訳となった『白鯨』での最重要章は第42章「鯨の白さ」であるが、これはこの作品全体にこめられた象徴性をあえて測深する章といえる。メルヴィルはここでコウルリッジの「老水夫行」のアルバトロスの白さの衝撃に言及しているが、彼の洞察力はそれに留まらず、「宇宙」の虚無的混沌、そして底知れぬ深淵に直面する人間の状況を透視するものとなっており、阿部もメルヴィル論でそれを強調しているのである。そこで今回のシンポジウムでは、阿部知二を介して、ポーとメルヴィルがどのようにコウルリッジの「海」を読み解いたかを考察してみたいと思う。

 

 

ポーとメルヴィルにおける詐欺師たち

                          宮澤直美

 

ハーマン・メルヴィルのThe Confidence-Man: His Masqueradeの第36章には、エドガー・アラン・ポーと思しき貧乏詩人が登場する。詐欺師が8つの仮面を次々と付け替え、特定の顔に留まることを避ける一方で、このポーらしき人物はポーの人相を彷彿とさせ、まさにポーらしく描かれているのは印象的だ。さて、そのポーであるが彼もまた詐欺に関する作品を書いている。詐欺師が登場する“The Business Man”を筆頭に 、詐欺を純粋科学として分析しようとする“Diddling Considered as One of the Exact Sciences”、さらに、Hoaxものである“The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall”なども詐欺を試みようとした作品として読むことが出来る。本発表では、これらのポー作品を、メルヴィルのThe Confidence-Manとの関係から再考し、ポーとメルヴィル作品における詐欺、詐欺師について考察したい。例えば、The Confidence-Manのコスモポリタンは、“The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall”の冒頭で気球から手紙を投じるピエロのような出で立ちの使者を想起させる。このような類似点を手掛かりとして、両作家における詐欺、顔を読むこと、語ることなどについて考えてみたい。

 

 

同性/同名のエロス――「ウィリアム・ウィルソン」と『ピエール』   

舌津智之

 

すぐれて審美的な作家であったポーの研究は、イデオロギー批評を嫌う。彼の作品における人種やジェンダーが論じられるようになったのは、比較的最近のことである。だが、セクシュアリティの主題は今もなお、ポー研究の空隙となっている。なるほど、性的倒錯の表象じたいは、近親姦や死体愛好というかたちで可視化されているものの、同性愛に関しては、ポーのテクストもその批評家も、あからさまに語ることはない。

本発表は、この空隙を埋めるべく、メルヴィルの『ピエール』に注目し、そこから「ウィリアム・ウィルソン」を逆照射することで、従来、自己分裂ないしは超自我の寓話として読まれてきたポーの短編を、クィアな欲望と恐怖の物語として捉え直したい。先行研究はすでに、『ピエール』におけるピエール・グレンディニングとグレンディニング・スタンリーの関係が、「ウィリアム・ウィルソン」における分身の主題を引き継ぐものだと指摘している。だとすれば、メルヴィルが描くホモエロティックな従兄弟たちと同様に、二人のウィリアム・ウィルソンは、(短編中の言葉を引くなら)同性間の「不適切で歓迎されぬ情愛のしぐさ」がもたらす「語り得ぬ不幸」と「許されざる罪」を背負った「兄弟」として立ち現れるのではあるまいか。