法社会学と出会った頃

青春はシュトルム・ウント・ドランクと言われる。わたしの人生観・世界観が形成されようとしていた高校卒業から大学にかけての時期は、わたし個人にとってそうであったばかりではなく、日本の社会にとっても、文字通り疾風怒濤の時代であった。東大・日大にはじまった大学紛争の嵐が、全国津々浦々の学園に吹き荒れていた。そんな頃、わたしは法社会学と出会った。

ゆったりと流れる淀川の川面に影を落とす中ノ島の阪大病院、この巨大な建物は山崎豊子『白い巨塔』の舞台となったことでも有名だが、これと川を隔てた向う岸に阪大の本部・医学部がある。それらと肩を接して立っていた廃墟のような建物、それがわたしたちがはじめて大学の授業を受けた旧理学部であった。

一九六九年の春にわたしは大阪大学に入学したが、全学共闘委員会(全闘委)による無期限バリケード封鎖が続いて授業は全くできる状態ではなく、われわれ新入生は自宅待機を命ぜられていた。しかし大学当局も、いつまでもこの状態を放置できないと思ったのであろう、一〇月末頃になって漸く、新入生の授業を開始すると通知してきた。法学部のある豊中キャンパスは前述のような状況なので、理学部が移転したあと放置されていた旧理の建物が、授業の場所として使用されたのだった。まさにそれは、「旧」という名にふさわしく、荒廃し、今にもブロックがバラバラと壊れ落ちてきそうだった。今思うと、幸い一人の怪我人も出なかったのが不思議な位だ。後日談によると、これは正規の授業ではなく、大学側のアリバイ作り(世間に対する申しわけ)程度のものであったようだ。

異常ずくめの授業だったから、平常時には考えられない色々と変ったことが多かった。大学側が配布した時間割表にクラス討論の時間が頻繁に設けられていたり、すぐ隣の松下講堂や蛋白研の前庭で開かれた集会に参加したり、またこれを粉砕≠オようとヘルメット姿の全闘委がなぐり込んできたり、などなど……。地方から出て来たばかりのわたしたちは、いきなり嵐の中に放り込まれたようなものであったけれど、その渦中で否応なしに「大学とは」「学問とは」「大学の自治とは」「理性と暴力の関係」といった重大な問題に直面せずにはいられなかった。

その旧理でのクラス討論のとき、こんなことがあった。法学部自治会の代表という四年生がわたしたちの前に現われ、「新入生諸君に訴える」一場の演説をなし、署名を集めに来た。演説といってもいわゆるアジ演説風でなく、淡々としたごく普通の話しぶりだったが、その歯切れよさ、明快さは、新入生を魅入らせた。話の内容はあらかた忘れてしまったが、「みなさんも法学を学ぼうとするからには、社会科学として学ぶよう努めていただきたい。ついては岩波新書の『現代法の学び方』は良い本だから是非読むように。」と言われたことだけは、今でも心に残っている。数日後、早速これを買い求めて読みはじめたが、初学者には難解で、中途でダウンしてしまった。また、署名の方はというと、法学部教授会に対して「法社会学」と「ソビエト法」という二つの講義の新設を要望するものであった。この要望書は講師の指定までしてあり、前者には渡辺洋三東大教授(当時)、後者には中山研一京大教授(同)を非常勤講師として招かれたい、とあった。「法社会学」も「ソビエト法」も一体どんなものか皆目見当がつかず、両先生の名前もはじめて目にするものだったが、自治会代表の熱意にほだされ、ほとんどの者が(もちろんわたしも含めて)署名していたようだ。かなりのちになってわかったことだが、この颯爽とした四年生の名は岡田雅夫さんといい、現在岡山大学の行政法の教授でいられる。ともあれ、これが「法社会学」にわたしが遭遇した最初であったが、そのときはまだ学問の名称だけとの出会いにとどまっていた。

紛争中という特殊な時期で、教授会も学生たちの意向に耳を傾けようとする姿勢が今よりはあったせいか、この講義新設の要求はほどなく認められ、翌年度から渡辺・中山両先生が集中講義に来られるようになった。

わたしが渡辺先生の法社会学を実際に受講したのは、三年生になったときであった。名前のイメージから都会的なスマートな先生をわたしたちは想像していたが、現れた実際の先生は農家のおじさんといった風貌で、いささかがっかりしたり親近感を覚えたりした。しかしこのようなミーハー的な気分は、講義が始まるや感嘆に変った。

当時、あれほど猖獗をきわめた大学紛争もすでに沈静化の時期に入っていたが、これとは逆に裁判所や司法をめぐっては、激震が続いていた。全逓中郵事件判決(一九六六、一〇、二六、最大判)・都教祖事件判決(一九六九、四、二、最大判)や教科書裁判杉本判決(一九七〇、七、一七、東京地判)のような憲法理念に立脚したすばらしい判決が続々と出される一方、他方で平賀書簡問題(一九六九年九月)、石田最高裁長官発言問題(一九七〇年五月二日)、最高裁による裁判官の任官および再任拒否(一九七一年三月)など、「司法の危機」とよばれる一連の事態が進行していた。一体この次にいかなる事態が起きるのか、またどのような判決が生み出されるのか、きわめて予想の困難な、逆にそれだからこそ興味津々たる時期であった。このような時期に法学を学びはじめたのは、わたしにとって実に幸運なことであったと思う。すべての判決予想が(しかも憲法理念に逆行する方向で)容易に見通せる今のような時代に法律学を学ぶ諸君に、わたしは同情を禁じえない。しかし、当時わたしたちの聞いていた講義は、現在もほとんど同じだと思うが、学生の興味をかき立てるというよりも、むしろふくらんだ学生の意欲をしぼませるものでしかなかった。ナントカ法第何条の意味はこう、この術語(テクニカルターム)の定義はこう、これに関する学説はABの両説に分れ、A説は更に二つに分れる……、といった体のもので、わたしは疑問と絶望を感じはじめていた。先生はいくつかの説を紹介したあと自説を最も正しいものとして主張し他説を論難するけれど、それは自説に都合のよい点だけをことさら強調しているのではないだろうか。また、ある箇所でのべた先生の説は、他の箇所における彼の説と整合しているのだろうか、またその整合性を保証するものは何だろうか。総じて法の解釈における正しさとは何だろうか、という疑問が講義の間中浮かんでは消えていった。また、そのような法律(解釈)学の知識をいくら集めても、容易に社会の全体像が見えてこないというもどかしさも感じていた。

わたしが渡辺先生の講義を聞いたのは、まさにこのような時期に当っていた。講義を聞くわたしの体は震えた。それまでに本で読んだり講義で聞いた諸学説や断片的な知識が、目の前で組み合わされ、ひとつの全体像(それはまさにわたしたちが生きて呼吸している日本社会の全体像に他ならなかった)を編み上げていく手際のあざやかさに目を見張った。ここでは、法は死んだ解釈としてではなく、生きた法現象として躍動していた。

第二次世界大戦後、新たな出発をした学問の世界にあって、「法社会学」は新生の意気にもえた法学の代名詞であったといわれる。いわゆる「団塊の世代」に属するわたしは、そのような二世代、三世代前の先生がたが法社会学に托した希望と抱負を知らない。ただ話として聞くことがあるだけである。しかし、一九七〇年代前半という時点でわれわれをとらえた感動は、それに匹敵するものがあったと言ってよいのではないか。

現在「新人類」とよばれる若い世代の人たちの間で、法社会学がそれほど人気がないようにみえるのは、残念なことである。激動の時代は、先の時代を見通す眼を要求する。また先を見通す眼は、科学的な思考によってのみ養えるものであろう。一九八〇年代後半という現時点に立って、日本社会は、当時と全く違った意味においてではあるが、やはりシュトルム・ウント・ドランクの時代を迎えようとしている。「新人類」諸君の法社会学熱が盛んになることを期待するとともに、法社会学の側でも、その要求に応えうる新たな魅力ある枠組を提示していくことが求められている、というべきだろう。