(8)戒能氏のルーツを訪ねて

「カイノウ先生」といえば、法学の世界にあっては、知らぬ者のいない大御所である。故戒能通孝博士[1]は、『入会の研究』や『小繋事件』などの著者として高名である。この通孝博士の本籍が愛媛県であったという話を小耳にはさんだことがある。息子さんである通厚[2]早稲田大学教授にそのことを尋ねてみた。この通厚先生も、イギリス法研究の第一人者である。

「たしかに以前、愛媛県の川内町が本籍だという話を聞いたことがある。でも父は、長野県の生まれで、愛媛に足を踏み入れたことはないはずだ」との答えが返って来た。

私は、道後湯築城の保存が問題になった頃、伊予の中世史を少しかじったことがある。湯築城の古地図に、「戒能筋」という地名を発見した。現在の岩崎町あたりだ。かつて伊予の守護大名河野氏の家老格であった戒能氏の屋敷が存在したことからこの名がついたらしい。戒能氏はもととも川内町一帯を支配していた領主だったが、河野氏の覇権確立とともにその傘下に入ったようだ(川岡勉『河野氏の歴史と道後湯築城』[3]など参照)。

 通厚先生に愛媛大学に集中講義に来ていただいた折り、「よい機会だから、戒能家のルーツを訪ねてみませんか」とお誘いした。当日は、伊予の中世・戦国時代に詳しい山内譲さん[4]にご案内をお願いした。

 車は国道一一号線からわき道に入り、だいぶ山中に分け入った。目の前に、戒能氏の菩提寺大通庵が現われた。寺の裏側は、墓地だ。かなり古そうな墓が多い。墓を見回っていた通厚先生は、笑いながら声をあげた。「ここも、ここも、そしてここも、戒能家の墓と書いてあるぜ」。さらに境内の方に回り、ゲートボールに興じているおばさんをつかまえて二こと、三こと言葉を交わしていた。あとで、「あのおばさんも戒能さんだった」と、楽しそうに語った。



[1] 戒能通孝(一九〇八〜一九七五)。『入会の研究』(一九四三年、日本評論社)、『小繋事件』(一九六四年、岩波新書)など。

[2] 戒能通厚(一九三九〜)。『イギリス土地所有権法研究』(一九八〇年、岩波書店)など。

[3]  川岡勉(一九五六〜)愛媛大学教育学部教授。主著に、『河野氏の歴史と道後湯築城』(一九九二年、青葉図書)、『室町幕府と守護権力』(二〇〇二年、吉川弘文館)。

[4]  山内譲(一九四八〜)。主著に、『海賊と海域—瀬戸内の戦国史』(一九九七年、平凡社)、『中世瀬戸内海地域史の研究』(一九九八年、法政大学出版局)。