小泉構造改革に組み込まれた「坂の上の雲」のまちづくり  

                          

  ※これは、200412. 5 に行なわれた「何が問題?『坂の上の雲のまちづくり』」というパネル・ディスカッションで報告したものである。                          

一 松山市の小説「坂の上の雲」を中核にしたまちづくり

 中村時広氏は、1999年の松山市長初当選以来、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を中核にしたまちづくりを市政の方針として推進してきました。

 しかし、市政第1期の途中までは、このまちづくりはそれほど進んでいるようには見えませんでした。司馬遼太郎記念財団の了解が得られないことが、その進展を妨げているとの情報がつたえられていました。このような状況が抜本的に変化し急展回するのは、200210月司馬財団との「基本協定書」を締結した時からです。このあと司馬財団とは、「『対価』についての覚書」「覚書に基づく対価の支払いについて」などが締結されています。

 その後市長をいたく喜ばせたのは、NHKが「坂の上の雲」をスペシャル大河ドラマ(1話75分で全20回程度)として制作することを発表したことです。これは、2003年1月9日のことで、NHK海老沢勝二会長自身が定例記者会見で発表したものです。

 「坂の上の雲」のドラマ化は、放送界においては垂涎のテーマでありながら、これまで実現しませんでした。ほかならぬ作者の司馬氏自身が、この作品のドラマ化を封印してきたのです。

 「これはちょっと余談になりますけれども、この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね。私自身が誤解されるのはいいのですが、その誤解が弊害をもたらすかもしれないと考え、非常に用心しながら書いたものです。」(『「昭和」という国家』1998年、NHK出版、p34

 1996年に司馬氏が亡くなってから6年、かたくなに「遺言」を守ってきた司馬財団が「坂の上の雲」のテレビドラマ化にゴーサインを出したことになります。いったい何が心変わりさせたのでしょうか。

 当初は、06年の放送を目指すとされましたが、意外な障害が訪れます。脚本家に起用された野沢尚氏の脚本作りが進まず、06年の放送開始予定が07年にずれ込みそうになったことでした。さらに不運がみまいます。今年6月には、野沢氏が自殺してしまったのです。しかし海老沢会長は、7月の会見でスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の制作続行を発表し、執念のあるところをみせています。

二 小泉「都市再生」と「坂の上の雲」のまちづくり

 話を2002年の暮段階に戻します。この頃、「坂の上の雲」のまちづくりに強力な助っ人が現われます。小泉純一郎内閣総理大臣です。1210日に、中村市長は全国都市再生に関する小泉首相の主催する「首長・有識者懇談会」に招かれました。この日招かれたのは、ほかに稚内市、栃木市、犬山市、臼杵市の首長で、有識者を交えて熱心な意見交換が行われました。席上、小泉総理は、「都市再生は構造改革の一環として小泉内閣の重要な課題。本日いただいたご意見を今後の施策に生かしていきたい。」と挨拶しました。

 翌2003年1月31日には、第156国会における施政方針演説では、小泉首相は、つぎのように述べました。

「我が国には、歴史に根ざした文化や伝統、優れた人材や企業が各地にあります。地域が持つ潜在力や魅力を引き出し、日本を再構築します。……北海道の稚内では、ロシア・サハリン州との交流を軸にした国際観光・交流都市づくり、沖縄の石垣では港を中心にしたまちづくりが進んでいます。四国の松山では、小説「坂の上の雲」がまちづくりのテーマです。地域の知恵と個性をいかした取組を支援してまいります」。

 さらに小泉総理のサービスは続きます。今年2004(平成16)年の年頭1月8日には、わざわざ松山市を訪問し、秋山兄弟生家あとなど「坂の上の雲」ゆかりの地を訪れました。そして1月19日、第159国会冒頭の施政方針演説では、2年続けて「坂の上の雲」に言及しました。

松山では、小説「坂の上の雲」をモデルに、歩きやすく住みやすい街づくりが進んでいます。地域の知恵や民間のやる気をいかし、全国で都市再生を進めてまいります。」

 このような例が他にあるかどうか、詳しくは知りません。しかし、「坂の上の雲」のまちづくりは、小泉内閣の推進する「都市再生」計画の一環に明確に位置づけられたわけです。経済特区の認定がスムースに運び、様々なかたちで国の補助金がつくなど大きな追い風を受けることになりました。

 では、小泉内閣の推進する都市再生とはいったいどういう事業なのでしょうか。これについては、五十嵐敬喜・小川明雄両氏の共著になる『「都市再生」を問う—建築無制限時代の到来—』(岩波新書、2003年)に詳しく紹介されています。最近東京で、六本木ヒルズや品川駅周辺、旧汐留駅周辺など超高層ビルが林立する風景がテレビのニュース等で紹介され、大規模な再開発が進められているのは、みなさんもご承知のことでしょう。

本来は都市計画法や建築基準法という法律があって、建築にはさまざまな規制をかけていますから、あのような超高層ビルは出来ないはずなのです。しかし、小泉内閣の成立直後に発足した都市再生本部は、「緊急整備重点地区」の指定などさまざまな仕掛けを施すことによって、従来の規制をほぼ無制限に緩和することによって可能になったものです。このような大都市の再開発が小泉「都市再生」の本丸です。

 さきの五十嵐敬喜・小川明雄『「都市再生」を問う』は、「都市再生本部は後になって地方も見捨てていないことを示すため、取ってつけたように「稚内から石垣まで」というスローガンを掲げるが、その重点は明らかに大都市圏、とくに東京、名古屋、大阪だろう。」と、述べています。

 その数少ない地方圏への配慮が、「歴史と伝統を生かした町なみづくり」です。この事業そのものは、2002年4月から取り組まれていますが、当初愛媛県から呼ばれたのは、内子町や保内町でした。松山市は入っていません。

 松山市が都市再生プロジェクトの一員に数えられるようになるのは、さきの200212月の「首長・有識者懇談会」以後のようです。

 少し回りくどい言い方をしましたが、言いたかったことは、第一に、一時頓挫していた松山市の「坂の上の雲」のまちづくりが急展開したのは、2002年秋以後のことではなかったかということ、そして第二に、これにはきわめて政治的な配慮がからんでいるということです。

三 「軍事大国化」路線と憲法「改正」の動き

 さて、いわゆる「小泉構造改革」は、「都市再生」を典型とする規制緩和路線の他に、もうひとつ別の顔を持っています。すなわち「軍事大国をめざす路線」です。

 小泉首相は、2001年4月内閣発足直後、就任記者会見で、「自衛隊は軍隊である」と明言し、集団的自衛権容認、憲法改正をめざすことを強く示唆しました。また、8.15に靖国神社公式参拝をすると公言し、内外の批判の中8月15日は避けたものの、13日に前倒しで参拝しました。

 小泉総理大臣がこの間力を入れてきたのは、自衛隊の海外派兵の実績を作ることと国内における有事法体制の整備でした。2001年9.11米国における同時多発テロにかこつけ、自衛隊の海外派兵を一気に実現しました。とです。11月には、テロ特別措置法を成立させ、自衛隊はインド洋まででかけ米軍艦船に給油活動を行いました。これは、海上とはいえ戦後はじめて戦闘地域に自衛隊を派遣したものでした。翌2003年6月には、武力攻撃事態法など有事3法を成立させました。

 そして8月には、イラク特別措置法を成立させ、翌2004年1月にはイラクに自衛隊を派遣しました。これは、戦闘地域である外国の地上に自衛隊の部隊が軍靴を踏み入れたもので、まさに自衛隊の歴史に新たな段階を画す事態であったわけです。

 また、今年6月には「国民保護法」を含む有事7法が成立させられています。

 戦後60年、憲法と実態との乖離が今ほど大きくなった時はないでしょう。しかしアメリカの要求はとどまるところを知りません。世界的規模での米軍再編にともなって、日本における米軍の配置も再検討されています。新聞報道などによりますと、座間キャンプにアメリカ陸軍の作戦司令部を置くことが検討されているようです。こうなると、日本はアジアから中近東に至るまでの広い範囲(「不安定の弧」)における米軍の作戦司令部となり、自衛隊は米軍と一体になっていつでもどこでも戦闘行動を行う実力部隊となるわけです。

 憲法第9条は、満身創痍・気息奄々もはや為政者の暴走を止める力を失っているかのように見えますが、そうではありません。対米追随の米軍協力をいっそう進めようとしている小泉内閣にとっては、憲法第9条は依然として障害物として立ちはだかっています(集団的自衛権容認に踏みだせない、いちいち法律を作らないと海外へ自衛隊を出せないなど)。

 だからこそ現在、憲法「改正」へ向けての動きが加速しているのです。

 小泉構造改革の中に「坂の上の雲」のまちづくりが位置づけられ、そしてNHKという巨大マスメディアの後押しをうけて、松山市が「坂の上の雲」のまちづくりを推進しようとしているのは、憲法「改正」の動きと連動しているのではないかというのが、私の仮説です。

 みなさんの中には、あるいは、「一地方自治体のまちづくりが憲法「改正」と連動しているなんてなんと大袈裟な」と思われるかもしれません。

 憲法「改正」は改憲勢力に取って、きわめて大きな政治課題です。国民投票法の制定、衆参両院における3分の2以上の多数による発議など、さまざまなハードルがあります。これらは、近年の国会構成の変化の中で容易にクリアされそうな状況になってきました。しかし最終的には、国民投票によって国民の過半数の支持を得なければ改正は成立しません。「改正」を受け容れる意識を国民の中に植え付けることができるかどうかが、勝敗の分け目になるのです。このため改憲を目論む勢力は、あらゆる機会あらゆるチャンネルを駆使して、国民の意識に働きかけようとするでしょう。また、それを現に実行しているのです。

 この意味において、小説「坂の上の雲」という作品は格好の素材です。

 第一に、作者の司馬遼太郎は、国民的に人気のある作家です。神格化されているといってもいいくらいです。司馬氏の小説は歴史小説のジャンルに分類されるでしょうが、ストーリー展開の合間に「余話として」と、作者の語りを入れるのが司馬流です。氏は、古今東西の蘊蓄を傾けながら、氏の歴史観を語ります。氏の歴史に関する発言は読者たちにとって素直に正しいと受け取られる素地があります。

 第二に、「坂の上の雲」の主テーマは、日清・日露の両戦争、なかんずく日露戦争です。この両戦役に関して司馬氏は、「祖国防衛戦争であった」とくり返し述べています。またこの作品を国民国家成立のものがたりとして描いています。この作品を読んだ読者たちの中に、国民国家を全うするには軍隊が必要なのだ、また祖国を防衛するためには犠牲が厭ってはならないのだ、それがリアリズムなのだという気分が表われても不思議ではないと思います。もっとも司馬氏は、昭和期にはいっての軍部の暴走にはとても同じ日本とは思えない、魔法にかけられていた時代なのではないかと強く非難し、注意深くバランスをとっています。しかし、基調として明治期を賛美する色調のほうが前面にでているといえます。

 松山市が推進している「坂の上の雲」のまちづくりが憲法「改正」の地ならしの役をはたすのではないかとの私の仮説が、杞憂であればそれに越したことはありません。そうであってほしいと念願しています。しかし、かりに市長が市民に勇気と希望を与えたいという善意から発案したことであっても、昨今の客観的状況からいって、心ならずもそのような役割を果たす恐れが非常に強いのです。

四 むすび

 現在松山市は、韓国、中国との間に定期航空路を開き、また、韓国平沢(ピョンテク)市との間に有効交流協定を結び、これらの国と友好を深めようとしています。韓国(朝鮮)および中国の東北部(満州)は、日清・日露の両戦役で戦場になった所です。のみならず韓国(朝鮮)は、日露戦争終結から5年もたたないうちに、日韓併合によって、日本の一部とされてしまいました。日露戦争が植民地化のスプリング・ボードとなったことは明らかです。これを日本の「自存自衛の戦い」とし、その地政学的位置から日本の植民地となるのはヤムをえなかったとする、司馬史観では到底これらの国の人々を納得させることはできないでしょう。

 「坂の上の雲」のまちづくりには、目下賛否が分かれています。少なくとも地方自治体としては、このように意見の分かれるものをまちづくりのシンボルとするのは適当ではないと断言できます。歴史観の問題がからんでいるからです。「坂の上の雲」に展開されている歴史観をよしとするかどうかは、市民それぞれによって意見が分かれております(私は一歴史研究者として、また一市民として「坂の上の雲」の歴史観を正しいと受け入れていません)。にもかかわらず松山市が「坂の上の雲」のまちづくりを推進していくということは、地方自治体が一定の「理念」や歴史観を市民に押し付けることになります。またその「理念」を支持するか否かをめぐって、市民の中に分断と対立を持ち込むことになります。

 これは、まちづくりの望ましい姿からも乖離した不幸な事態ということができるでしょう。

 かつて司馬遼太郎氏は、昭和期の日本は「統帥権」という魔法の粉をかけられた魔法の国になってしまったとなげきました。今また日本は魔法の国になろうとしているのではないでしょうか。願わくは「坂の上の雲」という名の魔法の粉で松山市がその先陣をきることのないように願いたいものです。