宮崎アニメはなぜヒットするか


  ※ このエッセーは、華宵会の機関紙『大正ロマン』19号(2002年)に
  掲載したものである。この会は、愛媛県温泉郡重信町(現東温市)下林
  に所在する高畠華宵大正ロマン館を後援するサポーター団体である。

 「千と千尋の神隠し」を見にいった。夏休みに上映を開始してからはや数ケ月が経過していたものの、映画館内はほぼ七割の入りで、衰えない人気に驚いた。洋画・邦画あわせて日本映画興行界はじまって以来のヒットだという。しかも、こと邦画に関すると、誰のどの作品を抜いたのかというと、それは同じ宮崎駿監督の「もののけ姫」だというから、恐れ入る。

 話は変わるが、私は高畠澄江館長から「先生、大衆性があるとはいったいどういうことなんでしょうかね」と質問されたことがある。高畠華宵は大正から昭和のはじめにかけて大変な人気で、一世を風靡した。その時期には、たしかに華宵絵画は大衆性を獲得していたといってよかろう。しかし大衆の気分はうつろいやすいもので、軍国主義の影響もあって人気は衰退し、忘れられていった。その後も、絵画界にかぎらず、演劇界、映画界、歌謡界、文学界、漫画界、その他数限り無いジャンルで多くの人気者があらわれては消えていった。しかしこれら分野でも、大多数の者たちは一時の人気すら享受することなく退場していったのであり、暫時にしろ大衆の人気を博した者にはそれなりの華があったはずである。大衆に「受ける」ということには法則性があるのだろうか、あるとすればいったいそれは何なのか、館長に限らず多くの人が知りたいと思っているであろう。もちろん私に、その答えがあるわけではない。しかし、当代一の人気者は何だろうかと考えた時に、宮崎アニメに思い及んだ。なぜ、宮崎アニメはヒットするのか。このテーマを通して、館長の質問の一端に答えてみようというのが、この小論の目的である。

 私の印象では、「もののけ姫」以前とそれ以後とでは、作品から受ける印象が全く変わってしまった感がある。「平成狸合戦ぽんぽこ」あたりまでは、楽しい話が多かったし、伝えようとするメッセージもシンプルで分かりやすかった。「もののけ姫」はひとことでいうと、難解である。おどろおどろしい雰囲気に満ちていたし、もののけ姫サンが主人公というより、ディダラボッチに象徴される森の不可思議な神秘さ、人智でははかり知れない自然の奥行きの深さこそが主題であったような気がする。また今回の「千と千尋」では、両親が豚になると言うショッキングな場面が用意されている。果たしてこのような作品が幼い子供たちに恐怖を感じさせないだろうかと懸念した。しかし案に相違して、子供たちにも大いに歓迎されたこと、前述のとおりである。

 では、宮崎アニメの何がひとびとをそんなにも引きつけるのだろうか。周囲の何人かにインタビューを試みた。「つぎからつぎに奇想天外の場面が展開され、息をもつかせないところが面白い」、「水木しげるのマンガみたいにいろいろな妖怪や物の怪が出てきて、それが妙に懐かしい気がするの」、「さまざまなキャラクターがでてくるけど、みんな本質は善人で、どうしようもない決定的な悪人は出て来ないような気がするわ」、「「となりのトトロ」なんか自然を大事にしようというメッセージが伝わってきて、みんなの共感をよぶんじゃないの」……。なるほど、みな一理ある、いいところをみていると感心した。しかし私は聞きながら、ずっと別のことにこだわりつづけていた。それは、ほかでもない、かつての宮崎監督自身の言葉のことである。

 それは、一九八九年二月手塚治虫が死去したときのこと。新聞や雑誌は「マンガの神様」手塚追悼の特集を組んだ。各方面からの弔辞も、「手塚先生えらい」のオンパレードであった。しかし、宮崎駿のインタビュー「手塚治虫に『神の手』をみた時、ぼくは彼と訣別した」(『COMIC BOX』六一号、一九八九年五月号)だけは、他の凡百の追悼とは違った雰囲気をただよわせていた。ほんのさわりを紹介しよう。

   ……「ある街角の物語」という……アニメーションで、バレリーナと  ヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏  みにじられ散りぢりになりながら蛾のように火の中でくるくると舞って  いくという映像があって、それをみた時にぼくは背筋が寒くなって非常  に嫌な感じを覚えました。意識的に終末の美を描いて、それで感動させ  ようという手塚治虫の“神の手”を感じました。」

 まちがいなくここでの「神の手」は、ネガティブな意味で使われ、宮崎駿はこれを否定しているのである。では「神の手」とは何か。すべての生とし生けるものを創造し、それに生命を吹き込むだけでなく、その運命を思いのままにあやつる造物主という意味であろう。しかし、アニメの上でこれを操るのは、神ならぬ人間手塚である。その登場人物の動く範囲も、手塚の想像の及ぶ範囲を超えることはできない。ここに宮崎は、手塚アニメの限界を感じたのではないだろうか。さらにいうなら、手塚は主知主義的で、かつきわめて近代合理主義的思考に富んだひとであると思う。彼は「メトロポリス」などで、人類の滅亡を描いているのであるが、人間の傲慢・科学技術の暴走がその原因といったふうに、原因も結果もきわめて理性的に割り切ってとらえることができる展開である。

 近代合理主義の生み出したものは、学校・工場・軍隊そして科学技術・機械文明によって代表される。しかし科学技術の爛熟した現代は、先行きが不透明で、みな閉塞感に覆われている。子供たちとて、そのことを敏感に感じているはずだ。いな子供たちこそ、日々学校や両親に抑圧され、大変なストレスに見舞われている存在だ。宮崎は、近代合理主義の限界をいちはやく見抜き、世界を理性で解釈するのではなく、土俗的世界ひいては自然世界の豊饒さに身をゆだねようと決心したのではなかったか。そして宮崎アニメを見た子供たちは、日頃自分を抑圧しているものたちの陥った「不条理」に快哉を叫び、一瞬のカタルシスを味わうのではないか。

 しかし、かの世界に行ったきりになってしまうのもまた恐いことだ。頭の片隅に、「これはアニメの世界、映画の世界で、ENDマークが出たらもとの現実世界に戻れるのだ」という安全装置を施してやらないと、安心してのめりこめない。それは、ひとつには登場人物=キャラクターの描きかたがかかわっていよう。宮崎アニメの人物たちは、いかにもアニメ然としている。肌の色も一色(正確には影の部分と合わせ二色)で塗られており、これは、背景のリアルな描写と好対照である。同時期に上映された「ファイナルファンタジー」は、コンピューターグラフィックを駆使し、人物も含め実にリアルに描写していたが、興行的には惨敗した。実物そっくりに描くことだけがノウではないのだ。

 以上が、「宮崎アニメはなぜ子供たちに受けるか」ということに対する私なりの見方である。子供を取り巻く状況は、すなわちわれわれ自身が身を置いている環境である。宮崎アニメが子供だけでなく、大人にも受ける要素がここにある。要するに、もっとも時代を反映しているものこそが、大衆の熱烈な支持を受けるのだという平凡な結論にいきついた。館長さんの問いに対する答には、とてもならなかったと思うが、ここらで許していただこう。