調査対象は身近に存在する   
    ―愛媛県松山市「東長戸町内会」を中心に―                      
 はじめに

 黒木先生が傘寿を迎えられるとのこと、慶賀の念にたえない。
 黒木先生の思い出は、わが師の故熊谷開作先生とともにあるといって過言でない。

思い起こせば、清里での第1回「法社会学インターゼミナール」でお目にかかったのが最初であった。会報『接点』の感想文欄に、黒木先生を評して「時代劇の斬られ役のような」と書いたのも懐かしい。今となって考えてみれば、失礼の極みであるが、ひとこと弁解しておくと、このように表現したのは熊谷先生で、私はそれを忠実に表現したにすぎない。しかしこう書いたということは、私自身言いえて妙だと考えていたということになるかもしれない。

 それはさておき、黒木先生・熊谷先生、そしておなじくインターゼミを通じてお近づきになった中尾英俊・武井正臣・小林三衛らの諸先生は、いずれも実態調査こそ法社会学の生命線と考えしたがって調査をすることが三度の飯より好きであるようにお見受けした。その意味で私は密かに、諸先生がたを法社会学における“調査学派”とよんでいる。われわれ「インターゼミ第二世代」は、インターゼミはじめいろいろな機会にご一緒し、調査のノウハウを教えていただいた。その恩は測り知れない。そしてこのような調査は、あるいは草深く分け入った地であったり、あるいは鄙びた温泉の近くであったり、遠方の農産漁村に出かけて行うのが常であった。そのような地だからこそ、古い慣習も残っていることむべなるかなと思えた。そこでわれわれ「第二世代」が、長じて指導学生を抱える身となり、彼らを率いて調査を組むようになった時も、無意識のうちになるべく鄙びた地を選んでいたように思う。

 しかし私は、ある時を境に、かような調査適地はなにも遠方にだけあるのではなく、意外にも身近な所に法社会学の調査対象となりうる地域が存在する、ということを強く意識するようになった。ここではそのきっかけとなったことを書きたいと思う。舞台は、松山市東長戸地区である。ここには愛媛大学の官舎が存在し、私は15年近くこの宿舎に住んでいたことがある。

一 「東長戸町内会」の組織および運営

 東長戸地区は、愛媛県松山市の北部に位置する。かつては純然たる農村地域であったが、現在では田畑が埋め立てられ宅地化し、新興住宅地化している。

 この地区は、江戸時代松山藩の支配下にあり、もとは長戸村であった。幕末期に東長戸村および西長戸村の両村に分かれた。明治22(1889)年町村制実施時に、高木・安城寺・東長戸・西長戸・久万の5か村合併により久枝村となった。さらに久枝村は、昭和15(1940)年に松山市に編入され、現在に至っている。

 現在の戸数は約1000戸、住民は約4000人である。平成6(1993)年の法人化当時の町内会の名簿上では920世帯、成人以上は2145名、ただし住民ではあるが町内会費を納入していない者はこの中に入っていない。このうち旧来からの住民(どの時点で先を引くか難しいが、一応第2次大戦終了時以降くらいを目安とする。地元では「本村」とよばれることもある)は、約100戸程度という話であった。

 「東長戸町内会」には、6つの「組」が存在する。それは、・東長戸1丁目、・北組、・中組、・南1組、・南2組、・愛媛大学宿舎の6つである。それぞれ居住地域で分けられているが、・愛媛大学宿舎だけは、ちょっと変わっている。同町の一角に愛媛大学の官舎(100戸)が存在し、ここは文字通り大学関係者のみが居住している為、便宜上一つの組として運用しているのである。  町内会の役員は、各組から推薦される組長1名の他は、町内会総会で選出される。町内会総会は、年に1回常会(1月)が開かれるが、その出席率はきわめて低い。私が参加した時の参加者は、ざっと見渡して100名程度であっただろうか。その他は委任状を提出し、これでようやく定足数を満たしていたのである。すなわち、町内会の運営に関心を持っているのは、ほとんど旧戸のみとみえた。 

 そして、私が参加してびっくりしたのは、その出席者たちはお互いを苗字ではなく、名前で(ある場合には呼び捨て、あるいはちゃんづけで)呼びあっていたことであった。 さらに町内役員の選出は、事前の談合で決まっているらしく、ほとんど満票でつぎつぎと決まっていったのにも、驚いた。

二 「東長戸町内会」の地縁団体法人化

・地方自治法の改正と地縁による団体の法人化

 平成3(1991)年地方自治法の改正によって、地縁による団体の法人化が可能となった(第260条の2)ことは、法社会学の“調査学派”のひとたちには周知のことであろう。これはいわゆる自治会、町内会等で集会所等の財産をもつ団体が存在するが、これらはが法人格をもたないとされており、その所有財産を登記できないことから発生するトラブルが絶えないため、これを防止するため法人格の取得に道を開いたものと説明された。この改正をめぐっては、入会林野を登記するため本規定を使うことができるかどうか、東・中・西の入会林野研究会や林野庁主催の入会林野コンサルタント中央会議でつねに問題となっていることも周知のことである。ここではその問題には深入りしないこととする。

 ここでのべたいのは、この規定を松山市においてはじめて(おそらく愛媛県で、いな四国ではじめて)適用して、町内会の法人化を実現したのが他ならない「東長戸町内会」であったことだ。 ・「東長戸町内会」の法人化の経緯  「東長戸町内会」が法人化に踏み切ったのは、つぎのようないきさつによる。

 従来同町内会には、公民館が存在していたのだが、平成5(1992)年ころその南側に土地を購入して駐車場およびゴミ置場(約80坪)を設置することになった。松山市の運用では、公民館を建設する際には、敷地購入費および建設費等を含めて必要経費を地元(=町内会等)負担金と市からの補助でそれぞれほぼ折半するが、登記名義に関してはすべて市有とすることになっていた。したがって今度の駐車場についても、これまでのやりかたでいけば市有名義となることが順当とみえた。しかし今回は、用地の購入費に四千万ないし五千万円の町内財産を投入することになることもあり、このように市有とすることには強い異論が出された。そこで町内会役員は、愛媛大学の無料法律相談や市内の司法書士に足を運んで相談をしていたところ、ある司法書士から地方自治法の改正によって町内会の法人登録ができるらしいと聞き及んで、地縁団体法人に移行することとした。

 平成6(1993)年1月10日町内会総会を開催して、このことを決めた。なお当日の参加者は、約90名、委任状参加が約790名であった。同年2月松山市より法人設立が認可された。かくして法人格なき社団「東長戸町内会」は解散し、地縁団体法人「東長戸町内会」に移行することとなった。こうして同町内会は、栄えある町内会法人化第一号の栄誉を担うことになったものである。

 以上の事情だけだと、自治省が本来予定していた趣旨に則り本規定が利用されたにすぎないと思うかもしれない。しかし、ここには、いくつか問題点があった。

・町内会の構成員をどうするか。すなわち従来は、戸が構成単位であったが、新制度のもとでは個人が構成単位と成る。もし、一戸から二人以上加入したいと希望するものが出てきた場合、この矛盾をどう調整するか。

・上と関連して、会費をどのように徴収するか。一戸から複数名分の会費を徴収するのか。

・町内会の会計は従来通りの方式で続けられるか。とりわけ、「宮費」「神社費」などは従来通り支出できるか。

・「東長戸町内会」の会計には、一般会計の他に「部落有財産」が別途存在する。この財産および会計はどうなるか。

・とくに前記「部落有財産」に含まれるものとして、「角田池」という広大なため池が存在する。この処理はどうなるのか。等である。

 以上のすべての点に関説するのは煩雑なので、最後の点にしぼろう。

三 ため池をめぐって

 東長戸地区には、多くのため池が存在した。しかし農地の減少、住宅地の増加などに伴い多くのため池は売却処分され、現在では「角田池」と称するため池が残っているのみである。なお、これまでに売却されたため池の代金は、松山市に二分の一、土地改良区に四分の一、東長戸町内会に四分の一の割合で配分された(問屋団地建設のため売却された「太郎丸池」の場合、おそらく他の場合もこれに準じたと思われる)。

 「角田池」は、約100年前庄屋門屋為十郎が藩の資金援助を受け、また村民の労働力を動員して天保12(1841)年築造したものである。池の当初の面積は、2町9反余り、池の築造によって田が42町増え102町3反に水がゆきわたるようになったという。明治26・27(1893・94)年の両度にわたる旱魃のあと、池の面積を拡張する工事が行われ28年5月、4町5反の池が完成した。なお、同池の水を農業用水に利用している田の面積は、現在では16haに激減しているという。

 同池の登記名義について地元で聞き取りをした時は、情報が錯綜していたが、法務局で調査したところ、表題部所有者欄に「久枝村大字東長戸」(もとは「東長戸町」であったが、錯誤を原因として昭和39年に「久枝村大字東長戸」と改められた)とあった。ところでこの池の横には国道196号線が走っているが、国道の一部が池の北東の角とちょうど重なり、そこだけが国道が狭くなっていて非常に危険であった。そこで建設省が道路の拡張工事を行うこととなり、池の一部を買収することになった。その際、法的にはつぎのような処理がなされた。すなわち、買収予定地はまず平成3(1991)年10月1日付けで「所有者松山市」として保存登記され、そして同日付けで売買を原因として建設省に移転登記がなされた。買収対象地は245平方メートル(登記簿上の面積)、代金1115万円は、松山市に二分の一、土地改良区および東長戸町内会に二分の一の割合で配分された。土地改良区および東長戸町内会の間の配分割合は分からなかったが、おそらく折半されたものと思われる。もしそうだとすると、従前の例に準じたことになる。

 以上の法的処理については、いくつか疑義が存する。それを列挙すると、

・そもそも本来ため池の所有者は、だれと考えるべきか。私は、「大字東長戸」(「東長戸」)の入会財産と考えるが、それでいいか。

・昭和39年の錯誤を原因とする表題部の訂正は、いかなる根拠にもとづき誰が行ったか。 ・表題部所有者欄に「久枝村大字東長戸」であったのを、松山市に保存登記したのは、おそらく財産区と看做して処理したと思われるが、この措置は妥当であったか。

・(これまでの処理も含め)売却代金のうち半分を松山市が得たのは、妥当であったか。またそれは、いかなる根拠にもとづくものか。

・もしため池が「大字東長戸」(「東長戸」)の入会財産であったとすれば、売却代金の二分の一を土地改良区と町内会で折半したのは、適切な処置であったか。

 以上のように、ため池の所有主体、またその法的処理等はきわめて悩ましい問題である。しかも「角田池」の大半(台帳面積2.5ヘクタール、実測約4ヘクタール)はまだ手付かずで残っているのである。にもかかわらず農業用水確保としての用途が減じていることは先に述べた通りである。将来同池の敷地の有効利用が問題となることがないとはいえない。その場合、地区住民は売却代金の半分を市に譲与することを潔しとするであろうか。もし住民がそれを拒否するならば、「東長戸町内会」が法人格を取得したことによって、同池の所有名義を町内会の名義に移転する条件は整ったように思う。しかしそうした場合、今度は別の問題(たとえば、旧「本村」住民と新加入者の対立)を呼び起こす可能性がある。池の周りを通るたびに感じる私の悩ましさは当分続きそうである。

 むすび

 以上、法社会学の調査対象は何も遠いところにあるものではなく、意外にもごく身近に存在するものであることを書いてきた。

 私は、自宅を近所に建築してて引っ越したため、現在では東長戸地区の住民ではない。黒木ゼミの卒業生でいえば、鈴木龍也君も、かつて東長戸宿舎の住人であったことがある。鈴木君は、竜谷大学に転出したため住んでいないが、それにかわって現在では、竹内康博君が奥さんお子さんとともに東長戸宿舎に住んでいる。