17)  乱歩という名の喫茶店

 珍しく息子が、私の都内ウォッチングに付き合ってくれるという。

地下鉄千代田線根津駅で降り、北を目ざす。不忍通から一歩中に入れば、昔ながらの路地の風景が懐かしさを誘う。根津教会を脇に見ながら、根津神社に向かった。このあたりは鴎外はじめ漱石、啄木、一葉などのゆかりの地が多いと案内書にある。

根津神社をあとに団子坂に向かう。江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」は、ご存じ明智小五郎が最初に登場した作品だが、「D坂」は団子坂のことなりというのが定説だ。そう思って坂をながめる。坂を登りきった所に、鴎外の観潮楼跡があるはずだが、もう遅いので次の機会にまわし、反対側谷中方面に向かおう。

歩き疲れたので休もうかと入ったのが、「コーヒー乱歩」という店だった。中へ入って驚いた。薄暗いのは喫茶店の常として、カウンター中央にアフリカ製とおぼしい木彫りの面がこちらを向いているのにぎょっとする。他にも年代もののランプや土俗的な花瓶など、雑多な物が並べられている。乱歩は、土蔵の中にロウソクを立て、おどろおどろしい雰囲気の中で作品を執筆したという伝説が思い浮かぶ。壁には乱歩作品映画のポスターが貼られ、耳にモダンジャズの低音が快い。

息子と向かい合ってコーヒーを飲むのも久しぶりだなと考えていると、馴染みらしい女性客が入って来た。マスターを相手に、持ってきた写真を見せながら話を交わしはじめた。切れ切れに聞こえてきた会話に、仰天した。「私、今度は縛られちゃったの」とのたまう。身体中の血が逆流するような気分に襲われる。

その後の会話で謎は解けた。どうやらこの女性は役者で、最近の乱歩映画にそういう役で出演したということらしい。が、いかにも「D坂」付近にふさわしいエピソードだと思いつつ、残ったコーヒーを一気に呑み込んだ。