側面からの支持者の弁                 

 「縁の下の力持ち」という言葉はあるが、「側面からの支持者」という言葉はないようである。今ならさしずめサポーターとでもいうのだろうか。サッカーのサポーターであれば、ひいきのチームが解散するとなると、それを決めた理事者たちをカン詰めにして深更まで団交に及ぶのだが、こちらはそんなことはしない。『「社会科」学研究』の終刊と聞いても、ただ「ああそうですか、時代ですな」と言って、ひっそりと消え去るのを見守るだけである。とはいえ、このささやかなサポーターにも若干の思い出と感慨がないことはない。以下それを記す。

 何といっても、最大の思い出は、私自身の論稿を掲載させてもらったことだろう。川岡編集長(当時)の求めに応じて、1989年6月発行の第17号に載せた「史料としての裁判所文書―松山地方裁判所所蔵資料を例として―」がそれだ。みずから「研究ノート」と銘打ったように、短いものだし、論述部分あり、統計あり、判決紹介ありと雑然として論文の体をなしていないものだった。こんな小品ではあるが、裁判所所蔵資料を利用した業績のひとつとして翌年の法制史学会の研究報告のなかで、わざわざ言及され面映ゆい思いをしたのも懐かしい思い出だ。

その直後、最高裁判所が50年の保存期間を経過した『判決原本』を廃棄するという方針を打ち出して、大問題になった。法制史学会はじめ多くの法学系学会はこれに反対して保存の運動を展開したが、頑固な最高裁の頭を切り換えさせるには、何よりも実際の研究成果を示すことが必要だった。結局保存運動が功を奏して、不十分ながら『判決原本』保存のてだてが講ぜられることになった。私の小論がささやかなお役に立ったのであろうか。もしそうだとすれば、こんなうれしいことはない。

 つぎは、中国人の院生鄒栄久さんの修士論文を掲載したことだ。1992年6月発行の第23号に載せた「明治前期における裁判離婚法の研究―松山地方裁判所所蔵判決を中心として―」がそれだ。鄒さんは言語のハンディなどものともせず、頑張って修士論文を立派にものにした。本人も私も、この論文を活字化しておくことを望んだ。しかし、どの雑誌に掲載することができるか、私には心あたりがなかった。そのとき思いついたのが、『「社会科」学研究』の存在だ。間瀬編集長(当時)に相談したところ、こころよくご了承いただき、彼女の論文を同号の巻頭に掲載することができた。彼女もたいへんよろこんでいた。『「社会科」学研究』は、こんなふうに国際親善にも一役かったのである。