ユニークな教科書作りに挑戦して   
    
                   ―『法史学への旅立ち』編集記―

   ※「ユニークな教科書作りに挑戦して」は、『日本の科学者』33巻12(1998年)「談話室」欄に
    掲載したものです。
     しかし、字数が限られていたため、大幅に削りました。
     ここには、最初の草稿のかたちで掲載します。
                    
 「大雪の降った日、法律文化社の岡村さんから『法制史のユニークな教科書を作ってもらえませんか』との依頼を受けたのが、この本の企画がスタートした最初だった」と石川さん(中京大学教授、本書の共編者)は書いているが、私にとっては、その石川さんから「今度学生に読んでもらえ澹るようなユニークな法制史の教科書を出したいのだが、矢野くん、君の得意のところを生かしてマンガを描いてくれないかな」と言われたのが、スタートだった。

 戦後最大の不況のあおりをうけて、出版界の苦境もなかなかなものらしい。学術書にいたっては、その売れ行きは惨澹たるものだと聞く。しかし、ただひとつ確実に一定部数がはける見通しのある学術出版物がある。それは、大学で使用される教科書の類である。これは学生が単位を取るために好むと好まざるとにかかわらず、購入する(否購入するよう先生から求められる)からである。しかしその後の教科書には、悲惨な運命が待ち構えている。まず、先生が講義で使用した部分(試験の範囲)は熱心に読まれるが、それ以外の部分がひもとかれることはまずない。そして用が済むと教科書は、さっさと本棚の隅か(場合によっては古本屋か)どこかへ追いやられ、もう二度とページを開かれることもない。これがこれまでの教科書の運命と相場が決まっていた。

 その原因は、ふたつあろう。学生はこれを読んでそこから人類の知的到達度とか、人生の糧とかを得ようと求めるのではなく、あくまで単位の取得が目的だからである。それと教科書が用が済むとお蔵入りになる原因はもうひとつある。教科書を開くと、何やら難しげなことがいっぱい書かれている。そして先生が「この本には古今東西の学者たちが精を出して究めたこの世の真理が書かれている、心して内容の習得に努めるよう」とのたまわっても、学生のほとんどにとっては珍プン漢プンよくわからない。正直言って、大学の大衆化というのか、レクラム文庫を小脇に抱えて「人生とは何ぞや」と煩悶していた旧制高校の学生のような存在はどこにもいない。Tシャツにジーンズ、ウォークマン、チャカチャカの世代、これが現代の学生の圧倒的に多数の姿であろう。

 このようなこれまでの教科書の常識に挑戦してみようというのだ。学生に読まれる教科書、試験が済んだあとでも保存して時折出して読みたくなる教科書、このような教科書を作って見ようというのが、われわれの目論見であった。

 石川さんと私は、はっきりと覚えてはないが、延べ10回近く編集会議をもった。といっても、だいたいビールのジョッキ片手ということが多かったけれど……。編集会議はまず、共著者の選定からはじまった。いろいろ紆余曲折はあったが、村上一博(明治大学助教授、明治前期の裁判離婚などが主な研究テーマ)・居石正和(島根大学助教授、地方制度史が専門)・橋本誠一(静岡大学助教授、憲法思想史・土地制度史などに強い)・田口昌樹(中京大学講師、地方行政史が専門)の諸氏に協力いただけることになった。

 みんなの専門は日本法制史、したがってとりあえず法制史の教科書に挑戦ということになる。これまで法制史(もしくは法史学)の教科書といえば、大体「古代の法、中世の法、近世の法、近・現代の法」といった時代別の編成か、あるいは「憲法史、民法史、刑法史、……」といった分野別編成かのどちらかが相場と決まっていた。それをとっぱらって、独自の行き方でやってみようというのだ。しかし、そのコンセプトをどこに求めるか。

 私はこう言った。「みんな授業をしていて、この話をすると教室全体がシーンとする、私語してる奴らも私語をやめて聞き耳を立てる、寝ている学生も起きてくる、あとで『今日は手応えのある授業だったなあ』としみじみ思い返すという経験を1度や2度くらいは持っているはずだ。その時の話題を一人1〜2話づつ書いて見てはどうだろうか」と。またこう言った人がある、「小説やマンガを法史学的観点から見ると面白いよ。いっそ小説を素材にした話をずらっと並べて見るのはどうだろうか」。ビールが入っていたこともあって、あとはワイワイ、ガヤガヤ。  結局それは、過激だということになって、取り止め。しかし、これらのアイデアはあとで生かされた。その後も何度も話合った結果、ご覧のような編成になった。お持ちでない方のために、本書の編成を記しておこう。

 プロローグ  第1章 法史学とはなにか
 第2章 こんな入門のしかたもある
   1 小説とマンガから入る法史学
   2 故郷を愛した人たち
 第3章 常識をくつがえす面白さ
   1 「日本人と労働」に関する神話
   2 日本人は法律が嫌いか―Do you think the Japanese are unique?
   3 「夫専権離婚説」を批判する
   4 法の継受を考える
 第4章 史料を読む楽しさ
   1 伝記・評伝類を読む
   2 法令を読む―新律綱領・仮定律例の世界
   3 学説を読む
   4 裁判史料を読む―“坊っちゃん”と温泉と廃娼裁判
   5 立法史料を読む
   6 法律雑誌を読む―フィリップ事件を追う―
 第5章 先輩からのアドバイス
   1 レポートの書き方
   2 沈黙のゼミから
 エピローグ

 結局、構成の柱は、・楽しい入門のしかたを考える、・「常識をくつがえす」ことが法史学の面白さである、・「史料を読む」ことによって法史学の醍醐味が味わえる、の3本ということになった。な〜んだ、ごく常識的な章節構成ではないかと思う人もいるだろう。しかし、従来の法制史(法史学)の教科書の行き方が、時代別もしくは法分野別構成であったことと比較してほしい。本書は、トピック中心の構成になっている。ということは体系的・包括的知識を盛ることを目指していないことを意味する。これには批判もあろう。「そもそも大学の授業は断片的でない、総合的知識を学生に与えるのが使命だ、細かなエピソードばかり積み重ねても決して広い視野・体系的知識は得られない」と。しかし、今の学生に2単位や4単位の授業で体系的知識を伝えるのは、不可能である。それよりもいくつか印象的な話題を提供することで、「法史学とはこんなに面白い学問だったのか」という印象を抱いてもらうということをわれわれの第1目的とした。

 つぎに特筆すべきは、本書の作成には学生が参加しているということだ。この不況時代、商品を作り販売する側はたいへんな努力をしている。モニター制度の活用など、消費者のニーズを知ろうと努力し、またそれを商品に反映している。教科書という商品の不思議なところは、消費者のニーズとおかまいなしに作られていることだ。今回、本書を作るにあたって、東京・松山・名古屋・山口県大島の4度の編集会議には、中京大学と愛媛大学から多くの学生に参加してもらった。先生がたの提出した原稿について、忌憚のない意見を出してもらおうというわけだ。「読者層は、大学の1年か2年くらいとのことですが、こんな難しいこと書いて1年生に分かると思いますか」「ここではやさしくしすぎて、学生をあなどっているとしか思われませんよ」などなど、やってみるとでてくるわ、でてくるるわ、率直な意見が次から次に出され、執筆者の先生がたは青くなったり赤くなったり、内心反発を覚えながらも、いまの学生を代表する意見として傾聴しないわけにはいかなかった。また、本書が通史ではなくトピックの積み重ねであるところから、「歴史の流れがわからない」との不満も寄せられた。これにこたえて、急遽巻末にイラスト風の「図解・日本近代法史」を急遽執筆・掲載することにした。

 またこれは石川さんのアイデアなのだが、本書中にも、若干のページを割いて学生諸君に執筆してもらった。「先輩からのアドバイス」という第5章がそれだ。現役の院生・学生に書いてもらった文章だから、これもいまの世代感覚に近いものが出せたのではないかと思う。

 そのほか、読みやすくするため、本書にはさまざまな工夫がこらしてある。まず、挿絵やイラストなどふんだんに取り入れた。それでも出来上がってみると、それほど挿絵が多いとは感ぜられない、もっと入れてもよかったかなと思っている。懸案のマンガについては、結局コママンガを掲載することは諸般の理由から断念したが、マンガ風の挿絵や「小説とマンガから入る法史学」の節を設けることで、1歩踏み出した。執筆者紹介もマンガイラストでやってみた。

 つぎに、普通の叙述体の文章だけでなく、会話体や手紙体などバラエティにとんだ文章を入れた。読みやすさと飽きさせないことがねらいだ。また会話の登場人物たちも当初原稿ではバラバラだったが、巻を通して一貫性のあるキャラクター構成にし、一定のドラマ性を持たせることにした。これには、編集の浅野さんのアイデアも加わっている。

 そのほか、極力難しい言い回しは避ける、難しい漢字にはルビをふるなど、細かな点にも気を配った。書名も、どのような名称にするか、かなり熱心に討議した結果、『法史学への旅立ち―さまざまな発想―』と言うところに落ち着いた。「さまざまな発想」というところに、執筆者一同の万感の思いが篭められている、というのは言いすぎだろうか。また表紙に渡辺崋山の「寺子屋」風景を使うというのは、当初よりの石川さんのアイデアだった。表紙のデザイン・色合いは、親しみやすく、読みやすいという本書のキャッチフレーズとマッチしたものになったという声が多く寄せられている。

 以上、いささか手前味噌風になったが、本書を執筆・編集するにあたって、われわれが苦心したところを述べてきた。学生に読んでもらえる教科書、法史学は面白いんだという第1印象をもってもらう入門書、編者の意図はこれにつきる。われわれの出したものがこの課題への最善の回答だとは思っていない。もっと工夫の余地もあるだろう。しかし、「分かる者だけついて来い」といいたげな現行の多くの教科書は、これでいいだろうか。もっといろいろなアイデアをこらした教科書が今後出てきてほしいし、出てきそうな予感がする。

      *石川一三夫・矢野達雄編『法史学への旅立ち―さまざまな発想―』は、
       1998年5月、法律文化社刊。