江戸時代、「信じられない」制度が松山藩で行われていた

  —この知恵を21世紀の地方自治に生かそう—

                        

  ※『グラフ松山 Waku Waku』2003年版に掲載されたものである。
   実際に掲載されたものは、私の書いた原稿を大幅に削減したため、意味がつうじにくくなっている所がある。ここでは、最初に書いた原稿を掲げる。

 宇和町にある愛媛県歴史文化博物館は、いろいろな工夫をこらして愛媛の歴史を再現している。その一角に、井門村(現松山市井門町)の展示コーナーがある。旧家豊島家の屋敷模型を中心に、江戸時代における同村の生活を再現している。ビデオの画面を使って、同村で実施されていた田畑の割り替え制が紹介されていた。これを見たある同僚の研究者は、「信じられない」とつぶやいた。

 では、田畑の割り替え制とは、どのようなものだろうか。それは、一定の期間ごとにくじを引いて、村内の耕地を農民同士で交換する制度のことだ。江戸時代には、農民にとって田畑は、年貢として納める米を生産するための土地であり、また彼らの生活を支える最も基礎的な財だった。ほんのわずかであっても収穫を増やそうと丹精こめて耕作し、一寸たりとも自分の土地が減る事には抵抗する、それが江戸時代の農民だ。しかるに、これを何年かごとに他人の土地と交換するなど、「信じられない」というのが、同僚ならずともだれしも抱く感想だろう。

 しかし、井門村の展示は同村の庄屋文書など確かな証拠に基づいて再現されたものであり、実際に割り替え制が行われていたことは疑いない。ではこの制度は、いつごろどのようにして始まったのだろうか。またこれは、井門村だけのものだったのであろうか。

 話は、延宝年間にさかのぼる。藩財政の逼迫に苦しんでいた松山藩において、延宝71679)年から奉行高内又七によって、「新法25ケ条」とよばれる抜本的な農政改革が実施されることになった。この目玉は、秋に収穫の具合を見て、その年の年貢の率を決める従来の「検見制」から、「春免制」(田植え前にその年度の租率を決定する方式)への転換である。「春免制」だと、農民ががんばって予定以上の収穫をあげるとその分はすべて農民の取り分となるから、農耕に精を出すだろうというのがねらいである。

 ところで、すべての土地は地味・厚薄・水の便・遠近などの条件が異なり、狭い村内であってもその生産性はけっして同じではない。そこで生じる不平等を避け、公平に年貢を負担できるよう工夫しないと所期のねらいを実現するのは難しい。そのため採られたのが、田畑の割り替え=割地制度であった。まず村内の耕地を細分化したうえでそれを組み合わせて、条件の等しくなるような土地のセットを作成する。これが一株のくじ地である。そして村内の百姓が各自の株数に応じてくじを引いて、自分の耕作する土地を決定するのである。最初のくじ引きから10年とか20年とか決められた年限が経過すると、再び同様な方法でくじを引いて、新たな耕作地を決め直す。この期間は、定期的に行われる場合と、不定期に行われた場合とがあった。村内の高持百姓はすべて年貢を納入すべき責任をもっている、その負担の公平、平等性を極限まで追及しようとしたところにこの制度成立の由来があった。

 この制度は、宇和島藩で寛文101670)年以降とられていたくじ持制にならったとも見える。違うのは、宇和島藩の場合は藩がイニシァティブをとって強行的に実施していったのに対し、松山藩の場合には地ならしを実施するか否かを各村の自主性にゆだねたことである。

 こうして割地制度は松山藩の農村に浸透していった。松山藩の割地制度は管下農村でひろく行われたが、その後100年あまりを経過するころから取り止める村が増えてゆき、天保年間(1830年代)ころまでにほぼ消滅したといわれる。しかし、越智郡島しょ部などを中心に地租改正後も割地制度を残した村が存在し、大三島の浦戸村に至っては、昭和341959)年までこの制度を続けたことが知られている。数年前、私は南海放送の取材に同行して、大三島町の浦戸地区を訪れた。テレビで放映されたから、憶えていらっしゃる方もあろう。体験者が生きておられ、割り替えが現実に行われていた時代を語ってくれたのは、感激的だった。

 割り替え制度をながく存続させたものは、何だろうか。農民のあいだに、究極の平等性を追求する精神があったことは間違いない。それと同時に、村のことは村の自治によって処理しようとする「自治の精神」、および村落内のひとびとの生活を村全体で維持しようとする「共同性」がこれを支えたのではないかと、私は考えている。

 割り替え制度が行なわれたとき、それとともに、「抜地」という制度も同時に実施された。「抜地」とはくじ引きから除外された土地という意味で、割り替えのくじ地をつくる時除外された一定の土地をさす。これには、庄屋のために確保された「庄屋抜地」が代表的だ。だが、その他にも多様な「抜地」があった。溜め池等の水利施設、神社や寺の土地などは村落共同体維持のために必要だったので、くじ割から除外され確保された。また、貧農や無縁などの零細畑や屋敷地も確保されていた。このように、村のすべての土地は、村の構成員全員によって管理され利用されてきたのである。庄屋抜地の設定も、特権的地位にある者のために確保されたと見られやすいが、村民一同の監視と同意のもとに行われたものであった。明治になって、この「庄屋抜地」がだれのものかをめぐって、多くの訴訟事件が闘われることになるのだが、この話は別の機会にゆだねよう。

 時代は、今や21世紀である。2000年から施行された地方分権一括法によって、地方自治体の権限は大幅に広がった。市街地だけでなく、農村部も含んだ多様な地域が存在するのが、松山のような地方都市の良いところではないかと、私は思っている。松山市郊外の農村部に、かつて割地や抜地のような制度が存在していた。自治的事務を共同処理し、恵まれない構成員も共に支えていこうとする精神がこれを支えていたことを思う時、21世紀の地方自治のなかに、この知恵を生かして行くことはできないだろうかと考える、今日この頃である。